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ロシアといえばオノ・ヨーコ
ロシアと聞いて、オノ・ヨーコが頭に思い浮かぶようになれば、なかなかのロシア通というものです。いまから十三年前の二〇〇七年六月二日、オノ・ヨーコはモスクワから北西に約二百キロ離れたトヴェリ州ベルノヴォ村を訪れました。そこで『白樺。北海道。一九五五年。』という一枚の絵に出会います。その絵をじっと見つめたオノ・ヨーコは、次のような言葉を残しました。「長い長い旅を経て、いまやっと、自分の家に帰ってきたような気がします」と。
ベルノヴォ村というのは、オノ・ヨーコの訪問がなければ、ロシア人でも誰も知ることがなかったような片田舎です。オノ・ヨーコをして、「自分の家に帰ってきた」と言わしめたものは一体なんだったのでしょうか。
オノ・ヨーコは、父・小野英輔と母・磯子の間に生まれました。父は、日本興業銀行第四代総裁である小野英二郎の息子にして、三菱UFJ銀行の前身である東京銀行の常務。母は、安田財閥創始者である安田善次郎の孫娘にして、貴族院議員安田善三郎の娘。まさに華麗なる一族に生まれたわけです。こうなるとますます、ロシアの忘れ去られたような片田舎との関係が遠く思われてきます。
ロシアの片田舎と華麗なる一族を結び付ける鍵となるのは、小野英二郎の長男、小野俊一です。ヨーコにとって俊一は、父・英輔の兄、つまり伯父にあたる人物です。俊一は一九一二年、東京帝国大学理科大学動物学科に入学し、中退後、一九一四年に当時のロシア帝国の首都にあるペトログラード(現在のサンクトペテルブルグ)大学自然科学科に留学します。留学中にブブノワ・アンナというヴァイオリニストと結婚し、一九一八年、ロシア革命の混乱を避けて共に日本へ帰国します。ブブノワ・アンナは小野アンナとして、日本のヴァイオリン教育に大きな足跡を残した人物で、一九五九年には勲四等瑞宝章を受章しています。
小野俊一とアンナの間には、俊太郎という息子がいました。アンナは彼にヴァイオリニストとしての英才教育を施しますが、虫垂炎により夭折してしまいます。日本を代表する銀行家一家の長男である俊一には、周囲からも子供を求める声が強かったのでしょう、アンナとは協議離婚の上、後妻との間に息子・有五をもうけます。ただしアンナは引き続き小野家に住むことになり、ブブノワ家と小野家の関係も悪くなかったようです。
アンナには同じく日本で生活する姉・ワルワーラがいました。ヨーコにとっては、ワルワーラおばさんとアンナおばさんという、ロシア人の親戚がいたわけです。ヨーコはアンナおばさんには音楽を、画家であったワルワーラおばさんからは絵を教えてもらったようです。冒頭に出てきた『白樺。北海道。一九五五年。』という絵は、ワルワーラの作品です。ベルノヴォ村にはブブノワ姉妹の生家があり、いまは博物館になっています。二〇〇七年にヨーコは初めてそこを訪れ、残されていたワルワーラおばさんの作品を目にしたわけです。
一九五三年、二十歳になったヨーコは米国ニューヨークにあるサラ・ローレンス大学に移ります。米国に発つ前、アンナおばさんと別荘で過ごしたのが、ヨーコにとってはアンナを見る最後となりました。この時アンナはヨーコにこんなことを言いました。「ねえヨーコ、ここの庭には白樺が何本あるか、知ってるかしら。」アンナは正確にその本数を知っていたといいます。
二〇〇七年にブブノワ姉妹の生家を訪れ、ワルワーラおばさんの絵を前にしたヨーコの頭の中には、白樺の正確な本数を知っていたアンナおばさんの言葉が思い浮かんだことでしょう。それはロシア人にとっての原風景だったのです。
さて、ここまでお話してきて、白樺が落葉松(カラマツ)ではないことが残念です。もしワルワーラの絵が『白樺。北海道。一九五五年。』ではなく、『落葉松。北海道。一九五五年。』だったとしたら。そして、小野家の別荘にあるのが白樺ではなく、落葉松だったら、タキシフォリンのブログとしてはとてもよかっただ思います。しかし、実際のところ、白樺が落葉松に代わったとしても、ヨーコとブブノワ姉妹とのお話は、寸分の違いもなく成り立つことでしょう。白樺も落葉松も、ロシア人の心の原風景には欠かせないからです。
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今回タキシフォリンの原産国である「ロシア」について調べたのですが、これがなかなか難しく、友人にヘルプをお願いしたところ、このような返信がありました。
タキシフォリンは研究室で生まれ人々の健康に寄与する素材として世界中から注目を集めていますが、日本人ほか多くの人にとっては、カラマツを原料とした食品素材の一つにすぎません。しかし、カラマツはロシア人の心の奥底にある原風景であり、アイデンティティそのもの。私たち日本人が漬物や納豆などの発酵食を大切に思うように、「タキシフォリン」はロシア人の心とも言える大切な素材なのです。